「ちょ、ちょっとどういうことよ! ルシアン様の婚約者だなんて……! そんな話、初耳よ!」ブリジットは興奮のあまり、立ち上がる。「ええ、そうですよね? 何しろつい最近、私とルシアン様の婚約が決まったばかりなのですから」そのとき――「あ、あの……お茶とお茶菓子をお持ちいたしました」メイドのアナがワゴンに2人分のとびきりのお茶と焼菓子を乗せて応接室に現れた。「まぁ、アナ。どうもありがとう」ニコニコしながら声をかけるイレーネ。「い、いえ。では失礼いたします」アナはいそいそと2人の側に行くと、紅茶と焼菓子をテーブルに乗せ……チラリとブリジットを見た。「何よ?」ジロリと睨むブリジット。「い、いえ。何でもありません! し、失礼致しました!」ペコリと頭を下げると、アナは逃げるように応接室を後にした。「まぁ……美味しそうなお茶にケーキですね。ブリジット様、一緒に頂きましょう」「……は?」唖然とするブリジットにイレーネは声をかけると、早速カップに口をつけると笑みを浮かべた。「……まぁ。香りも素敵だし、味も最高だわ」「ちょっと待ちなさい!! あなたねぇ……よ、よくもこんな状態でお茶なんか飲めるわね!」ブリジットは興奮のあまり、髪の毛同様頬を赤く染める。「ブリジット様、このお茶本当に美味しいですよ? 温かいうちに飲まれたほうがよろしいかと思います」しかし、イレーネはブリジットの興奮する様子に動じることもなくお茶を勧める。「……なら頂くわ」(そうね。お茶を飲んで少し冷静になりましょう)ブリジットはおとなしく座ると、早速紅茶を口にした。それはとてもフルーティーな香りで、飲みやすい紅茶だった。「……確かに美味しいわ」「ですよね? それなら焼き菓子も頂きましょう……まぁ! とっても美味しいわ! この紅茶と本当によく合います。ささ、ブリジット様もどうぞお召し上がりになってみて下さい」イレーネがあまりにも美味しそうに焼菓子を口にするので、ブリジットも食べてみようと思った。ただし、強気な態度は崩さずに。「ふ、ふん。食べ物なんかで私がつられるとでも思っているの? こう見えても私は色々な美味しいスイーツを食べ歩いているのだから」そしてフォークで焼き菓子を口に運び……。「! 美味しいじゃない……」「ですよね? お茶も焼き菓子も最高に美味しいです
「もう……帰るわ。お茶もお菓子もいただいたし」これ以上話をしても埒が明かないと判断したブリジットは立ち上がった。「まぁ、もうお帰りになるのですか? もしよろしければ、私の部屋に寄っていかれませんか?」「はぁ!? な、何で私があなたの部屋に行かなければいけないのよ!」キッとイレーネを睨みつける。「いえ、もしよろしければ私と友達になっていただければと思いましたので」「冗談じゃないわよ! どうして私があなたと友達になれるっていうのよ! ふざけないでちょうだい!」怒りを爆発させるブリジットに、イレーネはハッと気づく。(そうだったわ、私は1年間のお飾り妻。来年にはここを去っているのだから、お友達になってもらうのは図々しいお願い。第一、それではブリジット様に失礼だわ)「これは大変出過ぎたことを口にしてしまいました。どうぞ、今の話はお忘れ下さい。何しろこの町に出てきたばかりですので、親しい友人もおりませんでした。そこでつい同世代のブリジット様とお友達になりたく思い、図々しいお願いをしてしまいました。申し訳ございません」そして深々と頭を下げる。「え……? ちょ、ちょっと……」あまりにも突然態度が変わったことでブリジットは焦った。イレーネの心の内も知らずに。(もしかして、私……強く言いすぎてしまったかしら!?)「もし、今度何処かでお会いしても、もう二度と今の様な図々しい願い事はいたしません。大変申し訳ございませんでした」「な、何もそこまで謝らなくたっていいわよ! 別に気にしていないから!」気が強いブリジットではあるが、彼女はそれほど性悪な女性ではなかったのだ。「本当ですか!?」途端にイレーネの顔に笑みが浮かぶ。「そ、そうね……ど、どうしても友達になってもらいたいって言うなら……月に1度位は会ってあげてもいいわ。私だって、何もそこまで了見の狭い女じゃないし」「え? で、でも……よろしいのですか?」「だからいいって言ってるでしょう!? きょ、今日は部屋に寄ることは出来ないけど……気が向けば招待状位……送ってあげるわよ!」「ありがとうございます! ブリジット様!」イレーネは嬉しさのあまり、立ち上がるとブリジットの手を両手でギュッと握りしめた。「え!? きゃあ! な、何するのよ!」慌てて手を振り払うブリジット。「あ……申し訳ございません。
――3日後ルシアンとリカルドはマイスター家の帰路に着いていた。「それにしても、以外でしたね。現当主様がすんなりとルシアン様の婚約者の存在をお認めになるとは」馬車の中でリカルドが楽しげに話している。「結局、祖父は早く俺を結婚させたかっただけなんだよ。……現に、すぐに婚約者を連れてくるように言ったじゃないか。虚言だと疑っているのかもしれない」不貞腐れた様子で窓の外を眺めるルシアン。「う〜ん……そうでしょうか……イレーネさんの身上書もお持ちしたのに……写真もつければ信用して頂けたのでしょうか?」「だが写真は現像に時間がかかる。どうせ、遅かれ早かれ祖父に紹介しなければならないんだ。とりあえず、祖父はイレーネを認めたということだ。彼女にそのことを報告し、今度は2人で『ヴァルト』に行く」すると、その言葉にリカルドが目を輝かせる。「2人きりで『ヴァルト』に行くということですね? まるで婚前旅行みたいで素敵ですね〜最近は結婚前のカップルが2人だけで旅行をするというのが流行らしく……え? あ、あの〜……」ルシアンが恨めしい目つきで自分を睨んでいることに気づいたリカルドの言葉が尻すぼみになる。「リカルド……」ハァとため息をつくルシアン。「は、はい。何でしょうか?」「お前は一体何を考えているんだ? 俺と彼女はあくまで1年だけ夫婦を演じるとい契約を結んだだけの関係。それを何が婚前旅行だ。……全く、能天気だな。こちらはイレーネが祖父の前で何か失態をおかしたりしないか、今から不安でたまらないというのに……」「……そんなに心配でしたら、早々にイレーネさんにはお断りして次の方を探せばよろしかったのでは?」「……」恐る恐るリカルドは口にするも、ルシアンは無言を通す。(やはり……本当はイレーネさんのことを心の何処かで気に入られているのではないだろうか?)しかし、リカルドの考えとは裏腹にルシアンは別のことを考えていた。(彼女は貴族令嬢ながら、今まで散々貧しい生活に苦労してきた人生を歩んできた。1年間位、俺の妻として何不自由ない暮らしを与えてやりたい。何しろ、この結婚で俺は彼女の人生を狂わせてしまうことになるかもしれないのだから)勿論、リカルドはルシアンの心の内も知らず……勝手に妄想を広げていくのだった。****「お帰りなさいませ、ルシアン様」ルシアンが屋
その日の夕食の後――「本当に大したお方ですね、イレーネさんは」書斎に紅茶を淹れに来たリカルドがルシアンと話をしている。「何が大したお方だ。ブリジット嬢と友達になったと聞かされて俺がどれだけ驚いたと思っている。全く……これでは心臓がいくらあっても足りなくなりそうだ」しかめた顔で紅茶を飲むルシアン。「で、ですが……まさかイレーネさんが、ルシアン様だけでなくブリジット様まで懐柔してしまうとは……クックックッ……」リカルドは肩を震わせ、左手で顔を覆い隠している。「リカルド……お前、面白がっているだろう? 大体、懐柔とは何だ? 俺は別にイレーネに懐柔されてなどいないが?」「そう、そこですよ。ルシアン様」「何だ? そことは?」「イレーネさんのことをそのように呼ぶことですよ。今までどの令嬢全てにおいても敬称つきで呼ばれていたではありませんか? ……あの方を除いては」「……」その言葉に黙り込んでしまうルシアン。(しまった。少し余計なことまで口にしてしまったかもしれない)黙り込んでしまったルシアンを見て、リカルドは慌てたように話題を変えた。「そ、それにしても私たちがほんの3日留守にしていただけなのに、イレーネさんは既にこの屋敷で自分の地位を築き上げていたようですね。使用人たちが口を揃えて言っておりましたよ? イレーネ様はルシアン様の不在中、立派な女主人を務めておりましたと」「……まぁ、彼女はあんな細い身体なにのに、肝は据わっているからな」「ええ。ですからきっと現当主様はイレーネさんのことを気に入ると思いますよ」「だといいがな。だが、気に入られなくても構うものか。どうせ彼女は1年限りの契約妻なのだから」(そうだ、一刻も早くマイスター家当主に認めてもらうためにもイレーネを祖父に会わせなくては……)そして再びルシアンは紅茶を口にした――****――翌朝、朝食の席「え? 来週、ルシアン様のお祖父様に会いに行くのですか?」フォークを手にしていたイレーネが目を見開く。「ああ、そうなる。祖父に俺を次期当主に認めてもらうには結婚相手である君を引き合わせなくては話にならないからな。祖父は気難しい男だ。不安なこともあるかもしれないが……」「御安心下さい、ルシアン様。何も不安に思うことはありませんわ」「は? い、いや。俺が言ってるのは……」その言
翌日の朝食後――「イレーネ様、お出掛けにはこちらのドレスがよろしいかと思います」本日の専属メイドがウキウキしながらイレーネにドレスをあてがう。そのドレスは落ち着いた色合いのブラウンのデイ・ドレスだった。勿論、このドレスもイレーネが自らマダム・ヴィクトリアの店で購入したドレスであある。「あら、あなたもこのドレスが気に入ったの? ブラウンだったからどうかと思ったけれど……私たち、気があいそうね」ニコニコと笑みを浮かべるイレーネ。「ほ、本当ですか? イレーネ様!」メイド……リズは、美しく逞しいイレーネに密かに憧れていた。その相手から気が合いそうと言われ、喜んだのは言うまでもない。「ええ。年も見たところ私と変わりなさそうだし……名前を教えて頂けるかしら?」「はい、私の名前はリズと申します。私がこのドレスを選んだのには理由があります。何故ならこのドレスはルシアン様の髪色と同じ色だからです。初デートとなれば、やはりこのドレスしかありません!」きっぱりと言い切るリズ。「え……? デート?」デートと言う言葉に首を傾げるイレーネ。「はい、そうです。だって、初めてでは無いですか。お二人だけで外出なんて」(私とルシアン様は単に現当主様に会う為の準備を整える為に買い物に出掛けるのだけど……?)しかし、目の前でキラキラと目を輝かせているリズを前に本当のことを言う必要も無いだろうとイレーネは判断した。「そうね、確かに初めてのデートだもの。気合をいれないといけないわね。それではルシアン様をお待たせするわけにはいかないので、準備をするわ」「お手伝いさせて下さい!」こうして、イレーネはリズの手を借りながら外出準備を始めた――****「ルシアン様」ルシアンのネクタイをしめながら、リカルドが声をかけた。「何だ?」「本日の外出の目的はイレーネさんのドレスを買いに行くのですよね?」「そうだ、何故今更そんなことを尋ねる?」「いえ、少し確認したいことがありますので」「何だ? 確認したいこととは」鏡の前でネクタイを確認しながら返事をするルシアン。「ドレスを購入された後はどうされるおつもりですか?」「どうするって……そのまま、真っすぐ帰宅するつもりだが?」「何ですって? そのまま帰られるおつもりだったのですか? デートだと言うのにですか? 他に何処にもよ
「行ってらっしゃいませ、ルシアン様。イレーネ様」馬車の前に立つ2人にリカルドが笑顔で声をかける。彼の背後には20人近い使用人達も見送りに出ていた。「あ、ああ。行ってくる」物々しい見送りに戸惑いながらルシアンは返事をした。次に、隣に立つイレーネに視線を移す。「では、行こうか? イレーネ」「はい。ルシアン様」イレーネは笑顔で返事をすると、2人は馬車に乗り込んだ。「リカルド、外出している間留守を頼むぞ」ルシアンは窓から顔をのぞかせると、リカルドに声をかけた。「はい。お任せ下さい、ルシアン様」リカルドはニコリと笑みを浮かべ、次にルシアンに近づくと小声で囁く。「どうぞお仕事の方はお気になさらずに、ごゆっくりしてきて下さい。くれぐれも早くお帰りいただかなくて結構ですからね?」「あ、ああ……分かった。で、では行ってくる」まるで、早く帰ってきては許さないと言わんばかりのリカルド。その口調にたじろぎながらもルシアンは頷くのだった……。**「ルシアン様、ところで本日は何処へ行かれるのですか?」馬車が走り始めるとすぐにイレーネが声をかけてきた。「そうだな……とりあえず、町に出てブティックを数件周って服を購入しよう。祖父は身なりに煩い方だ。場をわきまえた服装でいなければネチネチと嫌味を言ってくるかもしれないからな。余分に買い揃えておけば間違いないだろう」少々大袈裟な言い方をするルシアン。(本当は、そこまで口煩い祖父では無いのだがな……イレーネにドレスを買わせるには大袈裟に言った方が良いだろう。そうでなければ彼女のことだ。きっと遠慮するに違いないからな)すると、案の定イレーネはルシアンの言葉を真に受けた。「この間10着以上もドレスを購入したばかりです。なので新たに購入するのは何だか勿体ない気も致しますが……当主様が服装に細かい方でしたら致し方ないかもしれませんね。何しろ私の役割はルシアン様が次の当主となれるようにお飾り妻を演じきることなのですから」「あ、ああ……ま、まぁそういうことになるな」きっぱりと「お飾り妻」と言い切るイレーネに苦笑しながらもルシアンは頷く。「よし、それではまず最初は前回君が訪れた『マダム・ヴィクトリア』の店に行くことにしよう」「はい、ルシアン様」――4時間後ガラガラと走る馬車の中で、イレーネとルシアンは会話していた
「そういえば買い物に気を取られていてお昼のことを忘れていたな。もう14時を回っている」ルシアンは腕時計を見た。「まぁ、14時を過ぎていたのですね? 買い物が楽しくて、すっかり時間を忘れていましたわ」「そうか? そんなに楽しかったのか?」イレーネの言葉にまんざらでもなさそうにルシアンが頷く。「はい、『コルト』に住んでいた頃は洋品店の窓から店内を覗くだけでしたから。実際に買い物をすることなど滅多にありませんでしたので」「あ、ああ……何だ。そっちのほうか……」落胆した声でボソリとつぶやくルシアン。「え? 今何かおっしゃいましたか?」「いや、何でもない。それでは少し遅くなってしまったが、何処かで食事でもしていかないか? この通りには様々な店が立ち並んでいるからな」「はい、そうですね」そこで2人は馬車から降りると、通りを歩いてみることにした――**「ルシアン様、このお店はいかがですか? なかなかの盛況ぶりですよ?」イレーネが駅前の噴水広場の正面にある店の前で足を止めた。「……あ。この店は……」ルシアンは店をじっと見つめる。「どうかしましたか? このお店のこと御存知なのですか?」「ああ……知っている。ここは開業してまだ5年目程の料理屋なのだが、元王宮料理人が開いた店で貴族達の間で人気の店なんだ」「まぁ。そんなに有名なお店だったのですか」「そうだ。……以前は俺も良くこの店に通っていたのだが……」そこでルシアンは言葉を切る。「どうかされましたか? ルシアン様」「い、いや。何でもない」首を振るルシアン。(そうだ、あれからもう4年も経過しているんだ。……多分大丈夫だろう)ルシアンは頭の中を整理すると、再びイレーネに声をかけた。「それでは……この店にしてみるか?」「はい、そうしましょう」笑顔で答えるイレーネ。そこで店の中へ入ると、すぐに笑顔のウェイターが現れて2人を窓際のボックス席へ案内をした。「イレーネ、どれでも遠慮せずに好きな料理を頼むといい」メニューをじっと見つめているイレーネにルシアンは声をかけた。「ありがとうございます。まあ……どれも美味しそう」(随分楽しそうだな……)楽しそうにメニューを選んでいるイレーネを見ていると、ルシアンはまるでこれが本当のデートのように思えてきた。「う〜ん……これだけ沢山のお料理
――17時「ええっ!? そ、そんなことがあったのですか!?」書斎にリカルドの声が響き渡る。「ああ……そうなんだ。全くいやになってしまう……あのウェイターのせいで最悪だ……。まさかイレーネの前でベアトリーチェの名前を口にするとは思わなかった」すっかり疲れ切った様子のルシアンが書斎机に向かって頭を抱えてため息をつく。「そ、それでイレーネさんの様子はどうでしたか?」リカルドが話の続きを促す。「……別に」「は? 別にとは?」「全く気にした様子は無かった」「そうなのですか!?」「ああ、それどころか微塵も興味が無い様子だった。このお店はお昼を過ぎているのに盛況ですねとか、祖父の話とか……世間話ばかりだった」「なるほど、それなら良かったではありませんか」笑顔になるリカルド。だが、やはりルシアンは良い気分では無い。(ベアトリーチェのことを気にしないのは助かったが……それはそれで面白くない。イレーネは俺個人に全く興味が無いということなのか?)そんなことを考えながらルシアンは面白くなさそうに自分の考えを口にした。「……だが、もうあの店には当分行かない。接待でも利用するのはやめよう。……気まずくて仕方がないからな」「はい、了解いたしました」「あと、厨房に伝えてくれ。昼食を食べた時間が遅かったので、イレーネの今夜の食事はいらないと」「そうなのですか?」ルシアンがその言葉に目を見開く。「ああ。イレーネ本人がそう話していたのだ。……彼女は随分少食だな。あんなに痩せているのだから、もっと食事をするべきなのに……」ため息をつくルシアンを見てリカルドは思った。(ルシアン様はイレーネさんのことが随分気がかりのようだ)と――****――21時イレーネが部屋で洋裁をしていると、不意に扉のノック音が響き渡った。「はい、どちらさまですか?」扉を開けると、ワゴンを押したリカルドが立っていた。「まぁ、リカルド様ではありませんか」「イレーネさん、お夜食を運んでまいりました。よろしければいかがですか?」「お夜食ですか?」「はい、ルシアン様が念のため用意するように仰ったのです」ワゴンの上にはティーセットにサンドイッチが乗っている。「そうですね。では折角なのでいただきます」「では失礼いたします」ルシアンはワゴンを押しながら部屋に入ると、テーブル
「イレーネさん。この荷物は何処へ運べばよいですか?」イレーネのトランクケースを運びながらリカルドが尋ねた。「はい、その荷物に寝具が入っておりますので2階に運んでいただけますか?」エプロンを身につけながらイレーネは返事をする。「ええっ!? 寝具まで持ってこられたのですか!?」「はい、そうです。ベッドはありましたけど、肝心の寝具が無かったので持ってきました。勿論ピロウにベッドカバーもです」「そうなのですか? でも、そのようなものはわざわざ持ち運ばずにお店で新しい寝具を購入して運んでもらえば良かったのではありませんか?」するとイレーネは首を振る。「いいえ、そんな勿体ないですわ。あるものは有効活用しなければ」「アハハハ……確かにイレーネさんらしい発想ですね。では2階のベッドルームに運んできますね」「ありがとうございます」リカルドは早速重いトランクケースを持って階段を登っていく。(それにしても泊まり込みでこの屋敷の掃除をするなんて……ハッ! も、もしや……ルシアン様の次期当主は、ほぼ確定したも同然。そうなると、契約妻を演じる必要も無くなる……。と言うことは、自分はもう御役御免でルシアン様にクビにされると思い込んで、今から引っ越しの準備をしているのでは……!?)心配性のリカルドはよからぬ考えばかりをぐるぐる張り巡らせ、ルシアンからの特命をすっかり忘れてしまった。過去の女性に関する何かが残されていた場合、イレーネに見つかる前に速やかに処理するという大事な特命を……。一方のイレーネは鼻歌を歌いながら、部屋にはたきをかけていた。「本当にこのお屋敷は素敵ね。家具はどれも高級品で、見たところまだ新しいし。それに食器まで残されているのだから。でも何故食器が全て2セットずつあるのかしら?」家財道具一式全てが自分の為に用意されたものだと信じてやまないイレーネは首を傾げる。「……分かったわ。万一割ってしまったりした場合を考えてルシアン様が用意してくださったのかもしれないわ。それともお友達用にかしら?」何でも前向きに、ポジティブに捉えるイレーネは自分の中で結論づけた。「う〜ん……確かに埃は多いわね……だから、ルシアン様は屋敷の中へ入ることを躊躇したのかしら。あ、そうだわ。床も綺麗に拭かないと」早速イレーネは庭の外に置かれたポンプ井戸までバケツで水くみをし
その日の朝食の席――「え? リカルド様が本日、私の付き添いをするとおっしゃっているのですか?」フォークを手にしたイレーネが目を見開く。「ああ、そうだ。何しろ数日は屋敷に泊まり込むつもりなのだろう? さぞかし持ち込む荷物も多いのではないか? 本当は俺がついていってやりたいのだが、どうしても本日は大事な仕事があって付き添えないんだ」そしてルシアンは給仕を努めているリカルドをチラリと見る。「はい、そこで私が是非イレーネ様のお手伝いをしたくて名乗りを上げた次第であります。荷物運びから掃除まで、何でも手伝わせて下さい。どうぞ、ボイルエッグでございます」リカルドはイレーネの前にボイルエッグの乗った皿を置く。「ありがとうございます。ですが、お気持ちだけいただいておきます。だってリカルド様はお忙しい方でいらっしゃいますよね? 私のことでご迷惑をおかけするわけには……」「「迷惑のはず無いだろう(無いです)!!」」ルシアンとリカルドの声が同時に上がる。「まぁ、本当にお二人は息ぴったりですのね」」妙なことに感心するイレーネ。「とにかくイレーネはいらぬ心配をする必要はない。自分の執事だと思って、好きなようにリカルドを使ってくれ」「ええ。今日は私のことを1日どうぞ下僕としてお使い下さい、イレーネさん」「え、ええ……そこまで仰るのでしたら、お願いいたしますわ」2人の剣幕に押され、イレーネは頷いた――****――午前10時イレーネの出発する時間がやってきた。「イレーネ様、本当にメイドは必要ないのですか?」馬車の前まで迎えに出てきたメイド長が尋ねてくる。「ええ、大丈夫です。私、こう見えて掃除も得意なのです。ルシアン様が私の別宅ということで用意してくださった家なので、自分で全て整えたいのです」ニコニコしながら答えるイレーネ。一方のリカルドは気が気ではない。イレーネがうっかり屋敷を契約婚のプレゼントだと話してしまわないかと思うといても立ってもいられない。「そ、それよりも早く出発いたしましょう。遅くなりますよ」しびれを切らしたリカルドはイレーネに声をかける。「あ、そうでしたわね。では行くことにします」リカルドの手を借りてイレーネが馬車に乗り込むとメイド長が手招きする。「何でしょうか?」メイド長の近くによると、リカルドは耳打ちされた。「いいで
――翌朝6時朝早くからリカルドはルシアンの部屋に呼び出しを受けていた。「ルシアン様、こんなに朝早くから呼び出しとは一体どの様な御要件でしょうか?」スーツ姿に身を包んだリカルドが尋ねる。「今日、イレーネがあの空き家に行くことは知っているな?」着替えをしながら問いかけるルシアン。「ええ、勿論です。昨日の話ではありませんか」「なら話は早い。リカルド、ここの仕事はしなくて良いから今日は1日イレーネに付き合え。一緒にあの家に行き、片付けの手伝いをするように」「ええっ!? な、何故私も一緒に行かなければならないのです? 今日は私も大事な用事があるのですよ? 倉庫の茶葉の在庫管理をしなくてはならないのですから!」「そんな仕事は他の者に任せろ、何はともあれイレーネを最優先にするのだ」ルシアンはネクタイを締めると、リカルドをジロリと見る。「何故です!? 第一、イレーネさんは付き添いは不要と仰っていたではありませんか!」「ああ。確かに彼女はそう言った。だがな……考えても見ろ! あの屋敷……彼女が出ていった後、そのままの状態だったじゃないか!」「いいえ、そのままの状態ではありませんよ? あの方のドレスや化粧品……私物類は全て持っていかれましたから。残されているのはマイスター家で用意した家財道具一式です」「屁理屈を抜かすな! そんなことを言っているのではない! もし、万一……いいか、万一だぞ? 彼女の痕跡が何処かに残っていたらどうするのだ! 持ち忘れた私物や何かがあるかもしれないだろう!? それをイレーネに見つかる前に探して処分しろ!」あまりにも無茶振りを言ってくるルシアンにリカルドは悲鳴じみた声を上げる。「ええ!? 無茶を仰らないで下さい! そんなことはルシアン様でなければ分かるはずないじゃありませんか! ルシアン様が行って下さい!」「行けるものならとっくに行ってる! だがな、今日はどうしても外せない商談があるんだ! 今更キャンセルさせて下さい、とは言えない相手なんだよ!!」「そんな! あまりにも横暴です! どうして私なんですか!?」何としても引き受けたくないリカルドは必死で首を振る。「お前以外に誰に頼めるというのだ! この屋敷で働く者はお前以外、誰も彼女の存在を知りもしないのだぞ!」「うっ! で、ですが……」思わず言い含められそうになるリカ
――その日の夕方屋敷に帰宅したルシアンは早速リカルドを呼び出していた。「ルシアン様……また何か問題でもありましたか……?」リカルドは明らかに不機嫌な様子をにじませているルシアンに尋ねた。「ああ、ある。重要な問題がな……だからお前を呼んだのだろう?」「今日は、イレーネさんとデートだったのですよね? な、何故そのように不機嫌なのでしょう? 楽しくはなかったのですか?」「デートだと? いいや、それは違う。単に2人で一緒に出かけただけだ……しかも、よりにもよって例の空き家にな!」ジロリとリカルドを睨みつけ、腕組みするルシアン。「ですが、本日あのお屋敷に行く話はルシアン様も承諾したではありませんか? それなのに何故いまだに不機嫌なのでしょう?」「それはなぁ……あの屋敷の家財道具が一切そのまま残されていたからだ! 一体どういうことだリカルド! 処分しなかったのは家だけじゃなかったのか!?」怒鳴りつけるルシアン。「ですが、処分したら勿体ないではありませんか!! まだまだ使えるものばかりなのですよ! しかも全て、あの方の好みに合わせた女性向けのブランド家具なのですから! 大体ルシアン様がいけないのですよ? 何もかも、全て私に任せると仰ったからではありませんか!」リカルドも大声で負けじと言い返す。「そこが問題だ! いいか? 俺がイレーネを々連れて行ったのは、あの屋敷を諦めさせるためだったのだ。駅からも遠いし、買い物にも少々不便な場所だ。その様な場所は好まないだろうと思ったからだ!」「確かに、あの地区は生活するには少々不便な場所ですね。住民もあまり暮らしておりませんせし……だからこそ、あの屋敷を買われたのではありませんか。ひと目につきにくい場所で、あの方とお忍びで会うために……」「やめろ! 彼女の話は口にするな!」そしてルシアンはため息をつくと、言葉を続けた。「……悪かった。つい、きつく言ってしまった……。そうだよな、俺が悪かったんだ……彼女のことを一刻も早く忘れるために、全てお前に丸投げしてしまった俺が」「ルシアン様……」「ただでさえ、あの屋敷には近付きたくも無かったのに結局行く羽目になってしまったし。鍵はお前から預かったものの、入るつもりは無かったのだから。なのにイレーネは見ていたんだよ。おまえが俺に鍵を渡す所を。それで中に入りたいと言ってき
――10時半ルシアンとイレーネは、とある場所にやってきていた。「まぁ……! なんて素敵なお屋敷なのでしょう!」イレーネが目の前に建つ屋敷を見て感動の声を上げる。「芝生のお庭に、真っ白い壁に2階建ての扉付きの窓……。まぁ! あそこには花壇もあるのですね!」結局ルシアンはイレーネの言うことを聞いて、リカルドがプレゼントすると約束した空き家に連れてきていたのだ。『ミューズ』通りの1番地に建つ屋敷に……。「そ、そうか。そんなに気に入ったのか?」引きつった笑みを浮かべながらルシアンは返事をする。(くそっ……! もう、二度とこの場所には来たくはなかったのに……まさか、こんなことになるとは……! 本当にリカルドの奴め……恨むからな!)心のなかでルシアンはリカルドに文句を言う。「だ、だがイレーネ。この屋敷はもう古い。しかも郊外から少し離れているし……暮らしていくには何分不便な場所だ。家が欲しいなら、もっと買い物や駅に近い便利な場所のほうが良いのではないか? 俺が新しい家をプレゼントしよう」何としてもこの場所から引き離したいルシアン。けれど、イレーネは首を振る。「いいえ、新しい家だなんて私には勿体ない限りです。この家がいいです。だって……なんとなく生家に似ているんです。私の家もこんな風にのどかな場所に建っていました。何だか『コルト』に住んでいた頃を思い出します」「イレーネ……」ルシアンにはイレーネの姿がどことなく寂しげに見えた。しかし、次の瞬間――「それに、こんなにお庭が広いのですから畑も作れそうですしね!」イレーネは元気よくルシアンを振り返った。「な、何!? 畑だって!?」「はい、そうです。ちょうどあの花壇のお隣の土地が空いているじゃありませんか? そこを耕すのです。最初は簡単なトマトから育てるのが良いかも知れませんね。カブやズッキーニ、パセリなどは育てやすく簡単に増えます。あ、ハーブも必要ですね。バジルや、ローズマリー、それに……」(まずい! このままではまた1時間近く話しだすかもしれない!)指折り数えるイレーネにルシアンは必死で止める。「わ、分かった! そんなにここが気に入ったなら……この家を今からプレゼントしておこう。何しろ次の当主は俺に確定したようなものだからな」本当なら、出来ればこの屋敷をイレーネに渡したくなかった。何故な
「え? 今日1日、私の為に時間を割く……? 今、そう仰ったのですか?」朝食の席で、イレーネは向かい合って座るルシアンを見つめた。「ああ、そうだ。俺は無事に祖父から次期後継者にすると任命された。こんなに早く決まったのはイレーネ、君のお陰だ。あの気難しい祖父に気に入られたのだから」「ありがとうございます。でも私は何もしておりません。ただ伯爵様とおしゃべりをしてきただけですから。ルシアン様が選ばれたのは元々次期後継者に相応しい方だと伯爵様が判断したからです。それにゲオルグ様が失態を犯してしまったこともルシアン様の勝因に繋がったのだと思います」「そうか? そう言ってもらえると光栄だな」元々次期後継者に相応しいと言われ、満更でもないルシアン。「それで、イレーネ。今日は何をしたい? どこかに買い物に行きたいのであれば、連れて行ってやろう。何でも好きなものをプレゼントするぞ。臨時ボーナスとしてな」すると、食事をしていたイレーネの手が止まる。「本当に……何でもよろしいのでしょうか?」真剣な眼差しで見つめてくるイレーネ。「あ? あ、ああ……もちろんだ」(何だ? い、一体イレーネは俺に何を頼んでくるつもりなのだ……?)ルシアンはゴクリと息を呑んだ――****「お呼びでしょうか? ルシアン様」食後、書斎に戻ったルシアンはリカルドを呼び出していた。「ああ……呼んだ。何故俺がお前を呼んだのかは分かるか?」ジロリとリカルドを見るルシアン。「さ、さぁ……ですが何か、お叱りするために呼ばれたのですよね……?」「ほ〜う……中々お前は察しが良いな……」ルシアンは立ち上がると窓に近付き、外を眺めた。「ル、ルシアン様……?」「リカルド、そう言えばお前……イレーネ嬢と契約を交わした際に空き家を一軒プレゼントすると伝えてたよな?」「ええ、そうです。何しろイレーネさんは生家を手放したそうですから。ルシアン様との契約が終了すれば住む場所を無くしてしまいますよね?」「ま、まぁ確かにそうだな……」『契約が終了すれば』という言葉に何故かルシアンの胸がズキリと痛む。「そこで、私が契約終了時にルシアン様から託された屋敷をプレゼントさせていただくことにしたのです。でも、今から渡しても良いのですけ……えぇっ!? な、何故そんな恨めしそうな目で私を見るのですかぁ!?」ルシア
――22時「アハハハハ……ッ!」ルシアンの書斎にリカルドの笑い声が響き渡る。「何がおかしいんだ? 俺は50分近くもイレーネの話に付き合わされたのだぞ?」「よ、よく耐えられましたね……今までのルシアン様では考えられないことですよ。あ〜おかしい……」リカルドは余程面白かったのか、ハンカチで目頭を押さえた。「だが、そんな話はどうでもいい。問題だったのはゲオルグのことだ。祖父に呼ばれていたばかりか、イレーネと出会うとは……思いもしていなかった」腕組みするルシアン。「ええ、そうですね。でも噂に寄るとゲオルグ様は頻繁に『ヴァルト』に来ているらしいですよ。特に『クライン城』はお気に入りで訪れているそうです。あの城で働いている同僚から聞いたことがあります」「何? そうだったのか? そういう大事なことは俺に報告しろ」「ですが、ルシアン様はゲオルグ様の話になると機嫌が悪くなるではありませんか。それなのに話など出来ますか?」「そ、それでもいい。今度からゲオルグの情報は全て教えろ」「はい、承知いたしました。でも良かったではありませんか?」「何が良かったのだ?」リカルドの言葉に首を傾げるルシアン。「ええ。イレーネ様がゲオルグ様に手を付けられることが無かったことです。何しろあの方の女性癖の悪さは筋金入りですから。泣き寝入りした女性は数知れず……なんて言われていますよ?」「リカルド……お前、中々口が悪いな。……まぁ、あいつなら言われて当然か」ルシアンは苦笑する。「それだけではありません。あの方は自ら墓穴を掘ってくれました。よりにもよって賭け事が嫌いな伯爵様の前で、カジノ経営の話を持ち出すのですから。しかもマイスター家の所有する茶葉生産工場を潰してですよ!」「ず、随分興奮しているように見えるな……リカルド」「ええ、それは当然でしょう? 私は以前からあの方が嫌……苦手でしたから。その挙げ句に自分の立場も顧みず、図々……散々事業に口出しをされてきたではないですか?」「確かにそうだな」(今、リカルドのやつ……図々しいと言いかけなかったか?)若干、引き気味になりながら頷くルシアン。「ですが、これでもう次期当主はルシアン様に決定ですね。何しろ、ゲオルグ様にはルシアン様の補佐をしてもらうことにすると伯爵様がおっしゃられていたのですよね?」「ああ、そうだ。祖父
2人はソファに向かい合わせに座って話をしていた。ただし、イレーネが一方的に。「……そうそう。そこで出会った猫なのですが、毛がふわふわで頭を撫でて上げるとゴロゴロ喉を鳴らしたのですよ。あまりにも可愛くて、持っていたビスケットを分けてあげようと思ったのです。あ、ちなみにそのクッキーの味はレモン味だったのでしす。子猫にレモンなんて与えても良いのか一瞬迷いましたが、美味しそうに食べていましたわ」「そ、そうか……それは良かったな……」ルシアンは引きつった笑みを浮かべながらイレーネの話をじっと我慢して聞いていた。(いつまでイレーネの話は続くのだ? もう47分も話し続けているじゃないか……。こんなにおしゃべりなタイプだとは思わなかった……)チラリと腕時計を確認しながらルシアンは焦れていた。早く祖父との話を聞きたいのに、いつまで経ってもその話にならない。何度か話を遮ろうとは考えた。しかし、その度にメイド長の言葉が頭の中で木霊する。『自分の話をするのではなく、女性の話を先に聞いて差し上げるのです』という言葉が……。――そのとき。ボーンボーンボーン部屋に17時を告げる振り子時計の音が鳴り響いた。その時になり、初めてイレーネは我に返ったかのようにルシアンに謝罪した。「あ、いけない! 私としたことがルシアン様にお話するのが楽しくて、つい自分のことばかり話してしまいました。大変申し訳ございませんでした」「何? 俺に話をするのが楽しかったのか? それはつまり俺が聞き上手ということで良いのか?」ルシアンの顔に笑みが浮かぶ。「はい、そうですね。生まれて初めて、避暑地でリゾート気分を味わえたので、つい嬉しくて話し込んでしまいました」「そうか、そう思ってもらえたなら光栄だ。では、重要な話に入るその前に……ブリジット嬢とどのような会話をしたのだ?」ルシアンはブリジットとの会話が気になって仕方がなかったのだ。「え? ブリジット様とですか?」首を傾げるイレーネ。「ああ、そうだ。随分彼女と親しそうだったから……な……」そこまで口にしかけ、ルシアンは自分が失態を犯したことに気づいた。『女性同士の会話にあれこれ首を突っ込まれないほうがよろしいかと思います』(そうだ! メイド長にそう言われていたはずなのに……! ついブリジット嬢と交わした会話に首を突っ込もうとしてし
「イレーネ……一体どういうことなのだ? 俺よりもブリジット嬢を優先して応接室で話をしているなんて……」ルシアンはペンを握りしめながら、書類を眺めている。勿論、眺めているだけで内容など少しも頭に入ってはいないのだが。「落ち着いて下さい。ブリジット様に嫉妬している気持ちは分かりますが……」リカルドの言葉にルシアンは抗議する。「誰が嫉妬だ? 俺は嫉妬なんかしていない。イレーネが、いやな目に遭わされていないか気になるだけだ。ブリジット嬢は……その、気が強いからな……」「イレーネ様がブリジット様如きにひるまれると思ってらっしゃいますか?」「確かにイレーネは何事にも動じない、強靭な精神力を持っているな……」リカルドの言葉に同意するルシアン。「イレーネ様は良く言えばおおらか、悪く言えば図太い神経をお持ちの方です。その様なお方がブリジット様に負けるはずなどありません」メイド長が胸を張って言い切る。「た、確かにそうだな……」この3人、イレーネとブリジットに少々失礼な物言いをしていることに気づいてはいない。「だいたい、ブリジット様の対応を出来るのはこのお屋敷ではイレーネ様しかいらっしゃらないと思いますよ?」「ええ、私もそう思います、ルシアン様。本当にイレーネ様は頼りになるお方です」メイド長は笑顔で答える。「確かにそうだな……。だが、一体2人でどんな話をしていたのだろう……?」首をひねるルシアンにメイド長が忠告する。「リカルド様、女性同士の会話にあれこれ首を突っ込まれないほうがよろしいかと思います。そして自分の話をするのではなく、女性の話を先に聞いて差し上げるのです。聞き上手な男性は、とにかく女性に好かれます」「え? そうなのか?」「はい、そうです。詮索好きな男性は女性から好ましく思われません。はっきり言って好感度が下がってしまいます。逆に自分の話を良く聞いてくれる男性に女性は惹かれるのです」「わ、分かった……女性同士の会話には首を突っ込まないようにしよう。好感度を下げるわけにはいかないからな。そして女性の話を良く聞くのだな? 心得た」真面目なルシアンはメイド長の言葉をそのまんま真に受ける。イレーネとの関係が契約で結ばれているので、好感度など関係ないことをすっかり忘れているのであった。「では、私はこの辺で失礼致します。まだ仕事が残っておりま